今日は3月12日。
8年前の今日は、SCSのお稽古場に通うキッズクラスのあかねちゃんが、初舞台を踏む日でありました。そのはずでした。
ミュージカルが大好きなあかねちゃんは、初舞台を楽しみにしていました。
まだ9才でした。 3月11日に起きたあの地震のあと、中学生のお兄ちゃんと一緒に避難所へと向かう途中津波が。
どんなにか恐ろしかったでしょう。
どんなにか痛かったでしょう。
どんなにか冷たかったでしょう。
どんなにか苦しかったでしょう。
昨日は、稽古場に居合わせたみんなが地震の時刻に合わせて黙とうをささげてくれたそうです。私は同じ時間に七ヶ浜町の追悼式に出席し黙とうしました。
毎年、3.11がめぐってくるたびに、全国で様々な催し物や報道が行われます。
全国からのご支援に私たちはどれほど助けて頂いたことか。感謝の気持ちが湧いてきます。
でも、僕らにとってほんとうにつらかったのは、地震翌日の3.12から。
地震の当日は、電気、水道、ガスはストップ。道路は渋滞。一体どこで何が起こっているのかよくわからなかったからです。仕事ももちろんストップ。
あかねちゃんが見つかったのは、地震から2週間経ったときのこと。
その近くからはお兄ちゃんも見つかったそうです。
僕たちも被災し地震後数日は動けませんでしたが、様々なご支援により、自分たちの水と最低限源の食料を確保すると、友人やNPOなどと連携し、かつてミュージカルの指導で通った歌津町(現南三陸町)や七ヶ浜町へと連日支援活動に入りました。
写真は地震から10日目にやっと水や食料を届けに行くことができた南三陸町歌津地区にある伊里前(いさとまえ)小学校の様子です。奥に見える体育館では、梶賀千鶴子先生を筆頭にSCS指導員が、かつて10年以上にわたり、子どもたちとミュージカルの練習に励みました。懐かしい場所です。
しかし、高台にある小学校の校庭にまで津波は押し寄せ、なぎ倒された時計は地震で揺れている時刻で止まったままでした。
何度か支援活動に入り、支援物資を運んだりするなか、避難所である方に「あの時の小学生ミュージカル発表会のビデオ、廣瀬さんの事務所にありますか?」と尋ねられました。大事な思い出のものも全て流されてしまったと。
その時私は、自分たちが仕事としてしてきていることの重大性をあらためて感じたのでありました。津波によって町は失われても、記憶の中の美しい町と子供たちの声は色あせず、それはその方が立ち上げる勇気、生きる勇気に直結していたのです。
After 3.11。
私たちは3.11に、あの地震の瞬間を思うのではなく、そこから始まった数週間、数か月、数年をイメージして、今を生きなくてはと、近年強く思います。
あの日から会えなくなった仲間たちの分まで、生かして頂いている意味を考えます。
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