山田太一さんの著書『月日の残像』を読んだ。最近山田太一さんが父と同じ年だということを知り興味が湧いたからだ。かつて山田太一さん脚本のドラマ「ふぞろいの林檎たち」には夢中になった。主人公の中井貴一さんが私と同じ年であるから、ちょっと自分なりのこじつけも生まれたせいもある。
さて、この本の中で、山田さんが「この人は、それをいっちゃあおしまいよ、というようなことをどしどしという」という表現で紹介している方があった。その人の名はフェルナンド・ペソア。
早速『不穏の書、断章』(澤田直訳、平凡社刊)を買ってみた。
なるほど。
「芸術において重要なことは表現すること。表現された物自体はつまらぬものだ。」(断章22)
「あらゆるラヴレターは滑稽だ。滑稽でなければ、 それはラヴレターではない。」(断章90)
…確かに。
引用をはじめたらきりがない。
どのページからでも読み始められるような気楽さも手伝って、このところ机の上に置きっぱなしである。
読み進めるとこんな記述も。
「私は貪欲で熱烈な読書家であるにも関わらず、自分が読んだ本のどれひとつとして想い出すことができない。私の読書は、自分の考えや夢の反射、というか、夢を惹き起こすものでしかなかったからだ。」(断章82)
はっとした。先日、友人と雄勝産と女川産の牡蠣を喰いながら、読書の話題となり、その時友人にとっての読書は「現実逃避かもしれない」と言っていたけれど、私のほうは山田太一さんのことをしゃべろうとして、この本のタイトルすら思い出すのに苦労した。なんと、山田さんの本から導かれたペソアの本に、上記のそれらしき記述が。
読書に導かれての読書。
こんなこともきっと私にとっての『月日の残像』となるのであろう。
亦楽しからずや。
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