映画館の思い出と言えば、生まれ故郷の米沢にあった映画館で、小学校の頃に観たいくつかの作品とそのポスター。
昭和40年代のころ。通学路にあったたばこ屋の軒下には市内の映画館ごとにポスターを張るスペースがあって、上演中のものや、次回封切のものなど、なかにはちょっとセクシーなポスターまで、ベタベタとノリで張り付けてありました。
今思えば、親が訝るのを横目に行った映画館の中は、薄暗いことはもちろん、いつもたばこの匂いと軽いアンモニア臭がありました。また、今のように入れ替え制ではなく、作品上映の途中入場OK。明らかに朝からずっといるような学生風の方や、腕組みしたカップル(アベックともいう)、映画ファンと思しきおっさんが、1本終わっても居眠りしていたり。決して健全な雰囲気ではありませんでしたが、その妖しさが子供心に、大人の世界を垣間見るような気持になったものでした。
さて、いまの私はと言えば、映画を見るのはもっぱらタブレットやPCの画面。いわゆる「銀幕」には少々疎遠になっておりました。せっかくの映画もPCで観ると単なる動画の一種と化してしまうようで、少々物足りなく感じてしまうものです。
しかし昨日、突然映画館で観る機会を得て、鑑賞したのが『祈りの幕が下りるとき』。
久々の大画面!
結論から言うと、不肖ヒロセ純、無防備な観客と化し、この作品の素晴らしさにただただ感動。久しぶりに、もう一度見たいと感じた実によい映画でした。
阿部寛さんの存在感と演技はいわずもがな、印象的だったのは、少女役で登場する桜田ひよりさんの演技。これは世の父親たちの心を鷲掴みにして涙の海へ沈めるのではないかと思わせるものでありました。
一方、阿部寛さんの父親役を演じた山崎努さんが、余命を悟った病室の窓に浮かぶ月をみて付き添いの看護師に「あの月になれば(のところへ行けば)息子のことををずっと見ていられる、しかし息子には内緒だ」というシーンがありました。
映画を見ながら私は、母が亡くなる数日前に「純、おかあちゃんはもうこのからだはいらないよ」と私に言ったことを思い出しました。
何となくその時私は、母はどこに行くのだろうと感じていたことを思い出しました。
もう故郷の米沢には街なかの映画館も母もありませんが、今夜あたり、月を見たら、いろいろと思い出してしまいそうであります。
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