一説によると、仙台藩士の支倉常長(はせくらつねなが)は52歳でその生涯を閉じたとされている。今年52歳になった私は、奇しくも支倉常長役で宮城県民会館のステージを務めさせて頂いた。
当時の仙台藩主伊達政宗公は、年表によれば25歳頃まで米沢を拠点としていた。藩士の支倉常長もその米沢に生まれたと言われている。400年以上も前のことであるから、当時の様子や世情を想像するのは難しいが、少なくとも私の故郷でもある米沢の周囲を囲む山々の姿は、彼らが生まれた頃とさほど変わりはあるまい。米沢は盆地である。すり鉢のような、一年の半分を雪に閉ざされる土地で人格形成されたサムライが、初めて海を見たときに、一体何を考えただろうか。
私は、自分の経験として、米沢を離れて初めて海を見た幼い日のことを思い出し、その答えに対する何となく直感のようなものを得ていた。
それが常長のミュージカルを制作しようと思ったきっかけのひとつであった。
1611年に慶長三陸大津波を経験した仙台藩は、2年後の1613年に当時の幕府方のガレオン船の4倍の規模にあたる500トンもの大型帆船「サン・ファン・バウティスタ号」を太平洋に出帆させた。そのことを現代の状況に照らし合わせるならば、一体どんなことになるのであろう。私たちはそのことを考え続けてきた。
ミュージカル「常長の祈り」では、正宗公の野望や、常長の忠誠心と信仰心などを作品に織り込みながら、作過程にも復興の祈りを重ね合わせた。県民による出演者100名の他に、スタッフもほとんどが地元の人間もしくは東北にゆかりのある人々でのべ6カ国による多国籍チームを構成した。
東日本大震災を経た400年という節目の時だからこそ、東北に生まれた私たちは作品を創るという使命を帯びたのだと感じた。地元の人間だからこそ自然体で取り組むことが大切だと思った。作品では先人の気概を大震災の復興と重ね合わせ、数奇な運命に見舞われながらも、当時世界で最強を誇るスペイン国王臨席のもとで洗礼を受けたただ一人の日本人、ドン・フィリーペ・フランシスコ・ファシクラの栄光と影を描いた。
言葉も文化も違う場所で、彼らは何故に歴史に名を残す程の歓迎をその地で受けることが出来たのか。そこに日本人、東北人としての誇り高き精神性の一端を見ることができる。
私たちは「目的を持ちそれを諦めない心を持った東北人として、先人に倣い、品格を持ちながらこれからの世界へ向かっていくべき」である。台本には出てこないが、稽古が始まってから半年間、そんなメッセージをずっと心に秘め続けていた。
復興庁によれば、今月になっても未だに27万人以上の方々が依然として避難生活を余儀なくされている。確かに今だ仮設住宅に住む友人知人も多い。勝負はこれからだ。1,000年に一度という災害を経験した私たちだからこそ地元の私たちが、1,000年先まで伝えられるような復興の姿を示さなければならない、と考えている。
大げさなことではない。
それぞれが、
それぞれの分野で、
今出来ることを確実にやるだけだ。
さて、時計を見れば2013年も、もう残すところ数時間。
今年もこのブログを訪れてくださったたくさんの方々、
ありがとうございました。
来年も拙い文章ながら、書き続けていきたいと思います。
おつきあい頂ければ幸いです。
来年は、支倉常長が生きられなかった年齢へ突入です。
そして、もちろん、今この時も
東日本大震災で命を落とした友人や子どもたちが体験できなかった
未来に存在しています。
そのことを忘れずに生きていきたいと思っています。
どうか、皆さま、よいお年となりますよう。
写真は石巻にて。ライトアップされて光り輝くサン・ファン・バウティスタ号(復元船)
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