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2023年12月30日土曜日

元気に育て

土の代わりに再生粉砕パルプを使用しているという「ねこ草」栽培セットを娘が買ってくれたので、早速育ててみた。

こんな紙のようなものの中から、果たして芽が出てくるのだろうかと半信半疑であったが、水をやってから5日ほどしたころだったであろうか、その紙のようなものの表面から、ぽよぽよとした芽が出て来てた。その日から彼らは毎日元気に天に向かってどんどん伸び始めた。

こんなに、毎日、植物を観察したのは人生初めてかもしれない(笑)。観察していて素朴な疑問が湧いた。彼らはどうして天の方向がわかるのだろうか?ちょっと調べてみると、どうも根っこに重力センサーのようなものがあって、そこで天を目指して芽を出すことが出来るらしい。

しかし、彼らは近い将来「食べられるために」その美しく緑色をたたえた身体を伸ばし続けているのだ。わかっているのだろうか…

考えてみると我々哺乳類は、もともと生きていたものを口にしていのちを長らえている。毎日元気に身長を伸ばしている草たちを見ていて、かなり複雑な気持ちになった。毎日見ていれば情も移る。

ふと、以前読んだ『植物はなぜ薬を作るのか』という本を読み返してみた。元素や化学物質に関する言葉も多く、読みこなすのにちょっと力の要る本であったが、あらためてページをめくると、今の私にとってその内容は多くの示唆に富んでいた。読み返しで得した気分。

何十年生きても世の中は分からないことだらけだ。当たり前と思っている事ほど奥が深い。それにしても、動物のようには動けない彼らの所作には、我々の理解を超えて「意思が」があるとしか思えない。紙を突き破る程のこのパワーの源は本当のところ、何処から来ているのか。果たして、この草たちを猫に与える時、私は悲しみや喜びや感謝の入り混じった気分になるに違いない。

植物に限らず、人間はコマーシャリズムの名のもとに、多くの生命を生産し奪う行為をし続けている。そして、正義の名のもとに、今年も相変わらず人間同士でも殺生を行う歴史が繰り返されている。
私たちは自然の一部であることを忘れてはいけないと思う。植物たちからも大きな恩恵を受けながら生かされている。平和を願い、そのために私たちに何ができるのか、ねこ草に「元気に育てよ」と声をかけつつ、世にある様々な矛盾で混濁した脳みそが自問自答する年末晦日。



2019年11月20日水曜日

秋の日の ヸオロンの ためいきの

3日ほど前の公演当日の朝、まだ静かな劇場前の道ををしばらく歩いてみました。


秋の日の
ヸオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。


『落葉』ポオル・ヹルレエヌ(上田敏訳)より

毎年紅葉の終わりごろの景色に出会う度、不思議とヴェルレーヌの『落葉』の一節が浮かんできます。
しかし、 記憶のなかでは、たぶん小学校6年生ぐらいの時に初めて目にしたこの詩のイメージと、当時マセガキの私が好きな詩人のひとりだった北原白秋の詩の印象がどうしてもだぶってしまっています。おそらく「ヴィオロン」という言葉の響きが、訳も分からず読んでいた『邪宗門』の印象と同質のものと思い込んでいたのでしょう。確かに「ヴィオロン」という単語が出てきますから。バイオリンではなくヴィオロンというところを妙に粋に感じた少年時代を思い出すとともに、時々、詩人たちの言葉が記憶の中で混じってしまうことがあります。

それにしても若いころに触れた言葉は、ずいぶんとしっかり染み入るものですね。今頃になって、もっとたくさんの言葉に触れておくべきだったと、少々後悔じみた思いにとらわれます。いや、年を重ねたものだけが感じることができる特別な感覚なのだと、脳内でポジティブに変換しておきましょう。
今は「青空文庫」などで、上田敏や北原白秋の文体に触れることができ、記憶があいまいだった詩の一節もすぐに確認することができたりして、とても便利になったと感じる反面、紙をめくるという作業にまだまだ愛着を感じています。

しかしながら、やはり、秋はページをめくる感触のなかで過ごしたいと、あらためて思う今日この頃。

みなさま、天気予報によると、明日は「この季節一番の冷え込み」となるそうな。
秋の夜長は何する人ぞ。風邪などお召しになりませぬよう。



2019年11月14日木曜日

偶然出会った本

所用で立ち寄った場所のロビーにて、書棚にあった本。
「あ、これは、以前○○ちゃんが読んで、感想を書いてきてくれた本だ。」
思わず手に取ってながめました。 タイトルが印象的だったので、私の頭蓋骨の内部にあるあやふやな記憶媒体にも、わずかにデータが残っていたのでした。


SCSミュージカル研究所では毎年「リーディングマラソン」を実施しています。
子どもたちが読書後の感想文や絵をそのつど稽古場に持ってきてくれるのですが、それらにインスパイアされることも多く、提案した私のほうが、感動したり新たな発見をしたりという状況です。

さて、偶然出会って手にしたこの本のページをパラパラめくると、実に面白いというか興味深い内容の連続。
偶然とはいえ、子どもたちが読んだ本を、あとで読んでみるということも、 なんだか彼らと体験を共有したような気分になって、実に楽しいものです。



2016年9月5日月曜日

ひとこと添えて

SCSミュージカル研究所が通年で行っている「SCSリーディング・マラソン」。すなわち読書量のコンテストです。

これは、不肖ヒロセ純が、なかば趣味ではじめたようなもので、「もし、何か本を読んだら短くても良いから感想書いて見せに来てね、もし、まだ字を習っていなかったら、感想はお絵かきでもよいですよ」というかなりユルイ条件のコンテスト。
はじめた動機は、子どもたちが本に触れる時間が減っているように感じた危機感です。年末の納会で、たくさん本を読んだ上位5名をお稽古場で、表彰します。

全く強制しているわけではありませんが、少しづつ本を読んでくれる子が増えています。うれしいことです。中には、数十冊分の感想文をまとめて持ってきてくれる子も。
勿論、持ってきてくれた感想文や絵には、全部目を通します。
そして、可能な限り、それぞれの感想文にひとこと添えてお返しするようにしています。


子どもたちとのやりとりは、楽しいものです。
読書は、彼らのこころとからだ、どちらにも効くクスリだと感じるこの頃です。


2016年2月15日月曜日

東北シェイクスピア脚本集

シェイクスピアの作品を東北弁に翻訳して、20年以上にわたり上演し続けている「シェイクスピア・カンパニー」の脚本集が、先週出版された。

実は、劇団名を The Shakespeare Company とシンプルに名乗れるのは、世界広しといえどもこの団体のみ。
というのも、主宰の下館和巳(しもだて・かずみ)さんが、英国にあるRoyal Shakespeare Company から、名称の使用許可を直接得ているから。下館さんは、2002年の秋にロンドンのグローブ座でアジア人としては初めてシェイクスピア作品の演出も手掛けている。
そんな品格の高いネーミングの団体が、品格の高い東北弁で、シェイクスピア劇を上演する。セリフは東北の人々の胸にすぅ~っと入ってくる。

本の帯は、女優の鈴木京香さんが書いてくださっている。


これは、脚本集の第1巻だそうで、残りの巻はこのあと随時発売されるとのこと。
因みに全5巻には下記のタイトルがつけられている。

第1巻 新ロミオとジュリエット/松島湾の夏の夜の夢
第2巻 新リア王/奥州幕末の破無礼(はむれ)
第3巻 恐山の播部蘇(まくべす)/縄文のから騒ぎ
第4巻 温泉旅館のお気に召すまま/仙台藩の十二夜
第5巻 新ベニスの商人/アトゥイ オセロ

遠方で上演されたもの以外、シェイクスピアカンパニーの作品は、ほとんど観ているということもあるが、その脚本は拝見したことはなかった。続巻もいまから激しく楽しみである。


2016年2月10日水曜日

無伴奏

「無伴奏が閉店しちゃたんだってよ」
と、友人に聞かされたのは、確か私が20歳の頃。

かつて仙台にあったその伝説的な喫茶店に、初めて足を踏み入れたのは19歳のときだった。
やたら学業成績の良い、バロック音楽好きの友人の勧めで。
本を小脇に抱えて、アーケードから少し入ったところの階段を下りて。
実のところ、その頃ロックやフォークばかり聞いていた私は、単に「音楽通」を気取りたかっただけの、偽バロック愛好家だった。


たしかその近くに「とまと」だったかな、レストランがあって、そこのサラダが大盛だったから、月に1度ぐらい、レストラン→無伴奏というルートが、当時の贅沢だった。

しかし、ついぞ無伴奏に「彼女と二人で入る」ようなことはなかった。

思い出の、苦きコーヒー。


2016年2月9日火曜日

東北のジュリエット

待ちに待った本が手元に。
シェイクスピアの名セリフを、東北弁で表現して、それぞれのことばに興味深い解説がつけられている新刊。


今月、河北選書のラインナップに加わった
『東北のジュリエット』(下館和巳著)です。

一気に読みました。
シェイクスピアが書いた台詞の品格と、東北弁の風格が、同時に紙面から立ち上がってくるような一冊です。




2016年2月1日月曜日

ファーブル昆虫記

『ファーブル昆虫記』。私の記憶にある45年前くらいに読んだ本は、もう手元にありませんでしたから、アマゾンで奥本大三郎先生の編集と翻訳によるポケットに入るサイズの本を求めて、時間を見つけては取り出していました。

ここまでで、もっとも心に残ったフレーズ…

「ひとりでしずかに観察をし、よく考えるのでなければ、たいせつなことを見落としてしまう」(ファーブル昆虫記〈1〉ふしぎなスカラベ -集英社文庫– 翻訳・編集=奥本 大三郎)


ファーブル先生は、野外観察などに出かけるときはほとんど一人で出かけていたそうです。変わり者とも評されていたようですが、この本からは、虫に関する情報はもちろんのこと、生きるということ、それに人間社会にもあてはまるたいせつなことなど、ファーブル先生が記した多くの示唆に富んだエピソードに触れることができます。

45~46年前、なぜか母は、虫に興味を持ち始めた子供の私に、ファーブル昆虫記全巻を揃えてくれました。全巻買ってもらうまで半年ぐらいかかったと記憶しています。きっと当時余裕などない家計をやりくりしてくれたのでしょう。この文庫本を読み進めるうちに、そんな子供の頃の風景も併せて浮かんできました。

第1巻を読み終えて、ふと思いました。
今の私が、稽古場のこどもたち、教室の学生諸君に伝えなければいけないのは、さきのフレーズ、そして「孤独な時間の大切さ」かもしれないな、と。
時代を超えて読み継がれる作品は、時間をおいて読み直すと、さらに深い感動を呼び起こすことが多くあります。

奇しくも1巻目、最後のページをめくった日は、昨夏逝った母の誕生日でありました。

2015年8月12日水曜日

話題作

いわゆるベストセラーと呼ばれる本は、一呼吸おいてから読み始めるのが常である。
呼吸しすぎて、ついぞ読まないでしまっている本のほうが多いけれど。

一方、若い頃に比べるとTVは全くと言ってよいほど観なくなってしまった。周囲にもそんな人は多い。時代もあるかな。しかしEテレでやっている「オイノコミア」という番組はなぜか時間があると最後まで観てしまう。案内役の又吉直樹さんの雰囲気が良かったからだ。番組内容もさることながら、初めて見たときお名前文字ずらだけだと「マタキチ」と呼んでしまいそうになるところがさらに良かった。これまた、顔が哲学的というか文学的というか、お笑い芸人という感じがしないところも良い。
そんな印象を持っていた又吉さんが書いた作品。この本を、溢れるほどの好奇心の持ち主、梶賀主宰が事務所に、当然のように持ち込んできた。芥川賞受賞作「火花」。この時期であれば「花火」と呼んでしまいそうなところが魅力的なタイトル。


ちょういと拝借して、スタッフよりも先に読み始めた。これほど、作者の声や表情が字面から浮かび上がってくるような本は久しぶりである。何か近所のお兄ちゃんが上梓しちゃった本という感覚。身近な感じで声が聞こえてくる。TVを先に観てしまっているからだろう。しかし、内容は確かに文学の薫りが高く、かつ面白い。又吉さんの柔軟な思考と発想、そして人間とそれを取り巻く環境に対してのすぐれた観察力は、圧倒的なものを感じた。
呼吸しすぎて、この本をうっちゃっておくことにならず、良かった。


2015年1月28日水曜日

読書法

皆さんは、どんな状況、どんな方法で本を読まれるのだろう。
きっとそれぞれに、違った読書法や楽しみを持っていらっしゃるに違いない。

SCSミュージカル研究所では、研究生に対し読書を推奨している。
別に宿題にしているわけでもないが、本を読むと報告してくれる子たちがいる。これは嬉しい。
一昨日も、研究生が結構な分量の感想文を持って、お稽古が始まる前に事務所のドアを叩いてくれた。 この春、高校を卒業する彼女の感想文は、瑞々しい感性に溢れ、私自身も感心させられるような場面も多い。
一方、読んだ本のイラストを必ず書き入れてくる子、まだ文字の書けない幼稚園児は家族に読んでもらった絵本からの印象を絵にして持ってきてくれたり、また、感想文の中に自分のちょっとした悩みや課題などもちらつかせてくる子もいる。とにかく、読むことと書くことがリンクしていることが大切だと感じているし、こちらも研究生たちが書いたものを読むのを楽しみにしている。
その昔は「お父さんのパソコン借りて書いた」と言って、「自作小説」を持ってきてくれた中学生にはびっくりした。

翻って、不肖ヒロセ純の読書法は…
ぁあ、全くなっていないと感じてしまう。
ふと机の端に目を向ければ、読みかけの本が積みあがっている。


あちこちかじり読みで完読するまでいつも時間がかかる。
こんな散漫な読書法は、非効率的なのでは、読書の意味が薄れるのでは、などと一抹の不安を感じながらも、「まぁ、読まないよりはいいのでは」とか、「いろんなことに興味があるだけでもいいんでない?」「ボケ防止にもなるかな(笑)」などと、自問自答する日々。かといって「とにかく読破」などという気概もなく、また新しい本を読み始めたり。中途半端なのである。

しかし、不思議なことが起きる瞬間がある。積み上げた本たちに、ふと縦糸が通ったように感じる瞬間だ。著者も時代も分野も違うのに、書物に書かれていることたちが、突然3次元化するような瞬間。
それはそれは楽しい瞬間。悦楽なわけで…

きっと今後もこんな調子で人生をやっていくのであろう。

2015年1月19日月曜日

人生七掛け

数日前から「風姿花伝」を読み直しています。
告白すると、学生の頃、そして20年くらい前、過去に2度ほど手にしています。しかし、こんな薄い本にも関わらず、それぞれに読破できませんでした。しかし、今回は何とか読み終えました。すると、これまでとはまた違った印象、発見があったのです。

特に風姿花傳第一にある「年來稽古條々」。


「七歳」から「五十有餘」まで人生を7段階に分けて、お稽古の仕方について説かれている部分なのですが、様々な指南書やビジネス書などに取り上げられていますから、ひょっとするとご存じの方も多いかもしれません。

世阿弥の父君観阿弥が50代で亡くなったとはいえ、なんで50歳までなの?、と昔は不思議に感じておりました。しかし、現実に自分が50歳を過ぎてその半ばに差し掛からんとする年齢になり行く末を想う年頃、少しだけ実感がわいてきています。世阿弥はこの書を39歳で書いたと言われていますから、今頃人生を見渡す気持ちになっている凡々人の私と天才の違いを実感します。

そこで、人生50年と言われた世阿弥先生の時代とは違って、今や人生80年と言われているわけですから、勝手に当時と現在の平均寿命で案分してあてはめてみました。つまり七掛けです。すると、現在の私は、年來稽古條々で述べられているところの「三十四、五」にあたります。(うひょ~、若返った感じ(^^)/)読者の皆さんは七掛けするとお幾つぐらいになられるのでしょう。

さて、私の場合該当するそこを、丹念に読んでみると…なるほど、なるほど!そうあるべきなんですね。ちょっと私にはハードル高いけれど、勇気が湧いてきますねぇ~。
私ごとき浅学の身で花伝書に関するコメントするのは恐れ多いのですが、この本は、読めば読むほど、芸事にも、武術にも、ビジネスにも応用できるんじゃない、ってことが書いてあるのです。

ことばには時空を超えて人を動かす力があるんだなぁということを実感する書物です。

一方、巻末にて「校訂者のことば」という西尾実先生の書かれた文章の中に、ちょっとドキっとする表現がありました。
岩波文庫版のなかで、ここにその一部を引用させていただきますと…

「来るべき文化の創造は、近代の出発にあたって否定された中世的なもののなかに潜む、否定することのできないエネルギーの発掘に負うところがなくてはならない関係にある」

という部分です。

昭和33年の夏に書かれた言葉とされています。翻ってわたしたちは、一体これまで中世的なものに対して、ちゃんと向き合ってきたのかどうか、強い反省を求められているようにも受け取れました。私たちはこの文に示されている「来るべき文化の創造」の時節に立っているのではないかと。単なる思い込みでしょうか。

恥ずかしながら、この本の共編者となっている野上豊一郎博士が、戦前すでに外務省の派遣により英国ケンブリッジ大学で世阿弥の講義を行っていたことは全く知りませんでした。その野上博士へのリスペクトも感じられる西尾実先生のことばには、風姿花伝や世阿弥の思想を紹介することで、次の世代へ何かを託そうとなされたのではと、世界の中でのニッポン人として動くヒントが、隠れていると。そういう思いがあったのではと想像しています。。

明治、大正、昭和と激動の日本にあって、 数百年前の舞台芸術家の思想、そこから生まれ今も継承されている日本人としてのアイデンティティの重要性を私たちに紹介しようと努力して下さった先生方のお仕事は、まことに偉業であると感じさせられる本です。

今更ながらですが、読むたびに、ここには書ききれないぐらいの発見がある奥深い書物であります。


2015年1月13日火曜日

読み返し

先日、アマゾンを散歩(もちろんネット上の)していたら、こんな本を見つけて衝動買いしてしまった。


一昨日の新成人たちを見て、ふと思い出したのは20歳の頃の自分。社会のことや人間関係の妙も全く知らぬままに、頭でっかち(今でも頭が大きいと言われるが)のままに、哲学や宗教に関わる本を読み漁っていた。

その頃は、お金がなかったから、図書館を利用することも多く、この「世界十五大哲学」という本も図書館で手にした記憶があった。その本が文庫本として復刻されていたのだ。

現在、復刊されたこの本はカバンに入れて時間のあるときにパラパラ読み続けている。
難解な哲学を入門者のために、平易な表現で紹介していることでも有名な本だ。

今読み返しても、非常に面白い。
そして、優れた書物には、何度読んでも、そのたびに新しい発見がある。

この本は各章の最後に参考文献や、研究書・学術書の紹介がある。
恐らく私は一生かけても読み解くことは出来ないであろう、そうした書物たちへの入り口でもある。

大学では、故石川文康先生の哲学の授業をとった。
その授業で聞いた「ア・プリオリ、ア・ポステリオリ」という言葉は、なぜか(理解しているとは言えないが)今でも覚えている。
一方、先生のカントのお話などは、情熱的なお話しぶりであったことを覚えている。しかし難しくて当時の私にはよくわからなかった。
けれども、その「よくわからない」という部分に、強い興味をひかれた記憶が、今でも鮮明にある。

この本を読み返しつつ思うのは、いまだに20歳当時の「よくわからない」というところから抜け出していないことであった(笑)。


2014年12月15日月曜日

新・戦争論

先日、友人と一献交わした折に、本の話になった。
最近読んだ本は何か、ということになり、
僕が、「え~と、あの~池上さんのぉ~」などと、思い出せないでいると、
「新・戦争論」?と友人。
 「あ~それそれ!」とワタシ。
かなりためになる面白い本でありんした。


偶然とはいえ不思議なものですなぁ。
同じような時期に同じ本を買って読んでいるとは。シンクロニシティに、しばし盛り上がり杯が重なる宵なのであった。

それにしても…
このお二人の分厚い知力は圧巻。
それに比べて、
年を経るごとに「知らないことの多さ」を実感するワタシ(笑)

2014年10月19日日曜日

リーディングマラソン中

毎年下半期恒例となりつつある「SCSミュージカル研究所リーディングマラソン」。
いわゆる読書コンテストですね。
6月から12月までの半年間で一番多く本を読んだ研究生には、代表(あ、ワタクシですね)が、ポケットマネーで記念品(粗品)をプレゼントすることになっています。

今年も続々と読書記録や、感想文が寄せられています。
中には、1ページ当たり1冊の本を読んで、ノート1冊びっちり感想が書かれているものもあります。


近頃の子どもたちは本を読まなくなったなんて声を聞きますが、決してそんなことはないと思います。
1年の前半は、主に東北学院大学の学生たちのレポートをたくさん読む機会があります。後半は、こうしてSCSの子どもたち、メンバーの文章に触れる機会が。
学生たちのレポートを読むとき、おそらく本をたくさん読んできたと思われる者は、すぐにわかります。それぞれの年代、それぞれの感性に私自身が触発されることも多く、PC変換漬けの私には読むことが出来ても、果たして書けるかどうか不安な漢字が綺麗に描かれていたりすると、ドキっとしたり。まだ文字を習っていない子どもは、絵本を読んでもらったりして「絵」を描いてきてくれます。SCSのリーディングマラソンは、本を読んだ証拠として、感想文じゃなくても「絵」でもOKなのです。

私が本にこだわる理由はいろいろあります。とにかく、どんなにインターネットやPCが進化しようとも、文字がなくなることはないでしょう。
このリーディングマラソン、読んだりコメント書いてあげたりすることで、自分の時間を多少使わざるを得ないのですが、意外にみんなの文章を読ませてもらうのは楽しいのです。体力とお金が続く限り(笑)主催させていただきます。
最初はプレゼント目当てでも良いのです。どんどん本を読んでいくうちに、気が付いたらきっと本に夢中になったり、本に救われたりすることがあるでしょう。
言葉に対して注意深くなったり、敏感になることは、若者たちがこれから人生を泳いでいく上で、いいことだと思います。

一方ミュージカル研究所においても「音楽やダンスにおける読解力」は、とても重要です。この四半世紀で子どもたちから教えられたのは、テクニック以外にそれらの感性を磨くために、読書はとても有益であるということです。

きっと、今週末のミュージカル本番を終えたら、また何人か感想文を持ってきてくれることでしょう。
楽しみだなぁ。


2013年9月3日火曜日

創作ミュージカル制作者の本音

日本で唯一の著作権情報専門誌「コピライト」に、エッセイを寄稿させて頂く機会を得、本日その専門誌が手元に届いた。
実際手にしてみると、冒頭エッセイということで「こんな格調高い専門誌に小生のようなものが書いて良かったのだろうか」と、少々恐縮。

エッセイのタイトルは「創作ミュージカル制作者の本音」


ヒロセ純さん、どんなエッセイを書いたんでしょうねぇ~。最後の方では被災地に絡んでの「新作上演特区」なんて提案もしておりまする。

さて、この専門誌は公益社団法人著作権情報センター(CRIC)会員向けの非売品なのだが、CRIC会員のほか、行政機関、大学、図書館協会・主な公共図書館、裁判所、都道府県教育委員会にも配布されているということなので、このブログの読者の方で、著作権に興味をお持ちの方は、公共図書館などで閲覧可能かと。

文字通り専門的な内容が中心だが、研究者ならずとも私のように制作の立場にある者にとっても、非常に有意義な情報がたくさん詰まっている専門誌である。