今や死語となった「パソコン通信」。
昨年、当時のパソコン通信会社大手であったNfty-Serve(ニフティ・サーブ)がweb上で復活。
今更使う必要もないのですが、懐かしくて、私も登録させて頂きました。
1987年にはじまったこのサービスは、テキスト(文字)ベースで様々な情報をやり取りしていました。 今では考えられないくらいの遅いスピードのモデムをパソコンに繋いで、ファックスの送受信のような「ピーヒャラララ~」って音を出して、繋いでおりました。
何ゆえ突然パソコン通信なんぞを思い出したかと言えば、
今日は1月17日。
今日は1月17日。
阪神・淡路大震災から18年目。
当時、私は毎週日曜日に仙台放送の「今、きらめいて」というドキュメンタリーの案内役をやっていました。発災が火曜日でしたから、日曜日の放送(生放送)までの5日間、次々とTVに映し出される惨状、まる2日くらい燃え続けた街、新聞による被災状況に打ちのめされるような気分。TVでのコメントにどのような表現をすればよいのか言葉を失っていた記憶があります。
何とかして情報を集めて、自分に出来ることをやりたいと、当時Nifty-Serveを使って様々な情報を集めまくりました。当然、文字だけなのですが、現地の方々から発信される情報は大変貴重なものと感じたものです。しかし現地に対しての支援活動としては僅かな金額の募金ぐらいしかできない自分が情けなく歯がゆく感じていました。
あれから16年、東日本大震災というあの震災を上回るほどの規模の地震に自分自身が直面するとは。
今、冷静になって考えてみると、震災後僕は同じように、パソコンを使った情報集めという行動に出ていたのです。震災とパソコン通信。私にとっては未だに複雑な気持ちになる2つの単語の結びつきなのです。
2年前の震災直後と阪神大震災当時と違うのは、写真や動画を通じて刻々と伝られてくる被災地の様子。パソコン通信の時代には考えられなかった状況です。さらにマスコミのフィルターのかからないTwitterやFacebookといったSNSも支援活動に大きな力を発揮しました。
そうした中、何より私たちの励みや希望となったのは、神戸や新潟などかつての地震被災地から真っ先に駆けつけてくださったボランティアの方々の姿。
しかし一方で、そうした皆さんの姿を見かけるにつけ、かつての阪神大震災のときに何も出来なかったのにという申し訳なさとか後ろめたさのような感情が頭をもたげたのも事実。と、同時に、だからこそ被災地においてそうした善意に応えていく意味においても、自分たちなりに目の前の問題を乗り越えて行かなければと意を新たにしたものです。
阪神大震災と今回の被災状況はだいぶ違うところもあるとは思いますが、18年かけて復興してきた関西や新潟、全国、世界各地の皆さんに学ぶべきところ、経験を共有していくべきところも多いはず。
被災地にいる私たちは、時間がかかっても、必ず復興していくという信念を持って今の諸問題に取り組んで、後世に伝えていかなければならないと感じています。
今、七ヶ浜町で、このブログを書いていますが、灯りのない住宅地、静けさの中、かつて住んでいたところに戻れない人々の姿を想像するだけで胸が詰まります。
福島に行けば、また別の意味で自分たちの無力さ、ニンゲンの愚かさを痛感します。
あれから18年目の今日は、これまでの大地震で失われた多くのいのちに改めて哀悼の意を表し、今生きている僕たちは、それぞれ出来るところから手を携えて、後世(子どもたち)に対し明るい未来をつくる努力をしていかなければと確認する日となりました。
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