急ぎの用事で、パソコンの中で探し物をしていたら、当時、米沢文化懇話会というところに寄稿した文章を見つけた。ちょっと自分でも新しい発見があったので、コピペしてみよう。長いので、時間のあるときに読んでみてね。はぁ~、忙しいときに限ってこんな余計な作業をしてしまう(汗)
【以下当時の原稿の引用】
気が付けば、私が米沢で生まれて暮らした時間を、仙台で暮らした時間が追い越そうとしている。大学在学中は「仙台興譲館寮」にお世話になり、同郷の仲間ととても有意義な時代を過ごした。当時の寮は現在ある寮の場所より少し東側の澱橋に近い閑静な住宅地の一角にあった。建物は老朽化が進んでいたが、部屋の腰板一枚にも先輩方の思い出が染み込んでいるような不思議な雰囲気があり、学生にはとても居心地の良い寮であった。
現在私はここ仙台を拠点として、こどもミュージカルの創作舞台や音楽の制作などを行っている。仙台といえば、かつて伊達家とともに移った米沢人がつくった城下町。現にこの街にある有名な神社仏閣は、そのほとんどが米沢から移されたものである。仙台の町を注意して歩くと、米沢にゆかりのあるものをあちこちに見いだすことができる。
さて、その仙台において数年前に宮城県からの依頼を受け、伊達政宗の家臣、支倉常長をモチーフにした創作ミュージカルをプロデュースしていたとき、私が米沢出身であることが大いに役立った。因に、歴史物を舞台で扱う場合には非常に気を使う。なぜなら、歴史や人物対する解釈が、学者や歴史家、郷土史家によって大きく違う場合もあるからである。たとえば支倉常長の墓とされる場所も川崎町の円福寺、仙台市の光明寺、大郷町の東成田の三説があるが、いずれも推定の域を出ていない。創作にかかわるアーティストたちと連日夜遅くまで意見をたたかわせていたところ、ある大きな問題にぶつかった。それは、なにゆえ伊達政宗はローマ法王へ謁見させるという名目で常長をヨーロッパへ派遣させたのか、ということである。400年近くも前のことであるから、今となっては本意や真意も同様に諸説があり、謎となってしまっている。どの説も常長の墓同様推定の域を出ていない。しかし私にとっては、自分自身が舞台上で支倉常長役を演じるということもあり、絶対に避けられないテーマであった。
悶々とした打ち合わせが続いたある晩、ふと、浮かんできたのが山に囲まれた米沢の景色である。一年の半分を雪に覆われ、かつ山に囲まれた土地。その土地で生まれ育った政宗が、奥羽山脈を越え、太平洋を望むこの土地に自分の城を構えたとき、一体何を思ったであろうか。常長のヨーロッパ訪問は「(天下取りへの)政宗の野望」などという言葉で語られるが、私はその時に確信に近いある感覚を覚えた。それは壁のない世界。宇宙的な発想。私はそれ以前に政宗の心に芽生えた、とてつもない「広がり」を感じたのである。米沢人のもつある種のねばりや頑固さも手伝ってその「広がり」を世界戦略にも似た発想へと変容させていったのではないだろうか。米沢を囲む山々を越えて新しい世界が開け、さらに見渡せば海の向こうにも…。アーティスト達に私の感じたままを伝え、創作ミュージカルの制作は次の段階へと進めることができた。
それ以来、私は彼の精神世界の構築にも多大なる影響を及ぼしたと思われる米沢という土地のもつ不思議な「気」のようなものに注目している。(政宗が米沢から岩手沢城[現岩出山町]へ移ったのは25歳の時である)そして、後に上杉鷹山公のような優れたリーダーが力を発揮できた土地。ここは近年になっても枚挙にいとまが無いほどの偉人や軍人、優れた学者を輩出し続けているのである。私は気功も風水も学んだわけではないので、あくまで創作活動を通じての直感のようなものだが、この土地がいかに素晴らしいパワーを秘めた土地かを強く感じている。
試しに、米沢市とか米沢藩という概念を取り払い、米沢市を中心に地図上で半径100キロぐらいの円を描き、このエリアでの過去800年ぐらいの歴史を見ると、時代の変遷とともに長井氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏の歴史絵巻が浮かんでくる。
エリアという観点からはさらにこんなことも感じている。たとえば海外に目を向けると、都市にグレーター(Greater)という冠をつけて呼ぶところがある。代表的なところではロンドン、ニューヨーク、ワシントン、トロント、バンクーバーなどがあるが、それぞれグレーター・ロンドンなどのように呼び、その都市と周辺地域を含めての一大商圏、工業圏、文化圏、観光地域などをさしている。最近では単に地域を指すばかりでなく「西のシリコンバレー、東のグレーター・ワシントン」といった具合に、産業振興のためにむしろ戦略的に結びついている状況もあるようだ。人口や経済活動の状況から米沢にそのような概念を当てはめるには強引だが、すなわち、先に述べた円内での歴史的事実からいえば、文化圏、人的影響力、スピリットという面では、まさしく「グレーター・ヨネザワ」というエリアをかたち作っているとは言えないだろうか。
専門家の方には一笑に付される考えかもしれないが、それだけふるさと米沢に対する思い入れと誇りを持っているということでお許しいただきたい。私にとっては海外で仕事をしている場合でも米沢で育ちその文化を体験していることが、外国人と面白い仕事をするための大きな支えとなっている。そして、そんなヨネザワの大いなる土地の力、人の力を信じている一人なのである。
遠くから近くから米沢を思うにつけ、そろそろ鷹山公の政策のような大胆なものが出現しても良い気がしている。またまた強引でばかばかしい発想であるが、たとえば「米沢は電話代がタダです」ぐらいのことをやったら、世界から注目も人も金も集まるだろう。米沢にはそんなとっぴなこともやってのけるような、良い意味での「そんぴん」さんがまだたくさんいるような気がしてならない。
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