2011年4月30日土曜日

心の復興劇場プロジェクト~連携01

最近どうしてそんなにボランティア活動ばかりやっているのかと問う方もいらっしゃいますが、答えは明白です。友人や仲間が困っているのをただただ見ているだけではいられないという単純な動機の他にもうひとつ、僕たちの仕事(本業)は、とにかく「お客さまに劇場やライブ会場に足を運んでいただかなければ成り立たない」仕事だからです。言い換えれば、人も社会も元気でいてもらう必要があります。ゆえに、みんなが元気でいてくれることは、僕らが仕事をさせていただく上で最も重要なことであると位置づけているからです。

震災以来、筆者は宮城復興支援センターとの連携で、支援物資の搬入や炊き出しのお手伝いなど、主に被災した方々の生命維持に係る活動を行ってきました。時間の経過とともに、その内容は変わりつつあります。

今日は東京の舞台プロデューサーの皆さまを、七ヶ浜国際村に ご案内しました。



音楽の魅力、舞台の魅力、人の魅力。

今それらを総動員し、様々な方々と連携して、被災地から「心の復興劇場」を生み出すことが僕の夢です。

先輩方、どうかお力添えのほどを!

2011年4月29日金曜日

お礼の色紙

米沢市民ミュージカル伝国座のメンバーに七ヶ浜国際村NaNa5931のメンバーから預かった寄せ書きを手渡しました。
この色紙は、先日伝国座のみんなから七ケ浜のみんなにノートやペンを贈ってもらったことへのお礼です。
七ケ浜のみんな、お礼の気持ちはしっかり届けましたよ。

スタッフ総見


今日は伝国座「Faith」のスタッフ総見です。
みんな緊張の面持ち。

2011年4月28日木曜日

震災後初めての舞台使用~七ヶ浜

庄内町から戻り、仙台で2時間ほどお仕事。今日は木曜日で七ヶ浜国際村パフォーマンスカンパニー稽古日ですから、すぐに七ヶ浜町へ移動しました。なんと本日は日本海から太平洋へと、日本列島横断する移動距離でありました。少々疲れましたが、それを吹き飛ばす良いことが。


七ヶ浜国際村ホールの使用安全確認がほぼ終了したということで、お稽古に舞台を使わせていただきました!
震災の前日は稽古日でしたから、それ以来はじめての使用です。
メンバーもうれしそうでありました。

もうひとつ、今日はプライベートでも嬉しいことがあり、記憶に残る一日なのでありました。

庄内町はあったかい~南三陸町への支援

「南三陸町の復興を願う集い」という会が昨日(27日)庄内町商工会「コアアルザ」大ホールにて開催されました。
庄内町と南三陸町との交流は、これまでに
平成11年に旧立川町と旧歌津町が友好町盟約
平成18年に庄内町と南三陸町が友好町盟約締結。また災害時における相互応援に関する協定締結。という歴史があります。
震災直後から、庄内町の皆さんは、南三陸町に対して連日物資搬入や炊き出しなどを実施し、町内で募金した義援金も届けられています。

ヒロセ純は、歌津町(現南三陸町)と、余目町(現庄内町)の両町で創作ミュージカルのプロデュースをしたことから、この集いにお招きいただきました。
庄内町のみなさんのあったかい気持ちに、何度も目頭が熱くなりました。

原田町長とお話した際の「わたしたちは南三陸町の皆さんにとって、最後のセイフティ・ネットであり続けたい」という言葉に、将来を見据えた強い意志と庄内町の皆さんの並々ならぬ友情を感ぜずにはいられませんでした。






この模様は余目ホテル若おかみ日記でもごらんになれます。昨夜の僕らの宿はもちろん駅前の余目ホテル。10年前に余目町に通っていた頃にはほとんど、ここにお世話になっていました。庄内町のあったかさを、1日で体験できるような宿です。
みなさん、ほんとうにお世話になりました。
また是非訪問させてください!

2011年4月26日火曜日

みちのくミュージカルシアターも元気です!

震災以来はじめて、というより1月の盛岡公演以来はじめて、みちのくミュージカルシアター(MMT)の稽古場にお邪魔しました。
久しぶりにみなさんの元気な笑顔を見ることができて、とてもうれしくなりました。



梶賀先生のレッスンもほんのちょっぴりですが行われました。
震災から立ち上がるには「心の復興」も大事です。
これからMMTのみなさんともてを携えて、一緒にがんばりましょう。

帰り道~陸前高田市

大船渡市から一関市に向かう途中、いくつかのスナップ写真です。
陸前高田市では、まだ行方がわかっていない方が1000人ぐらいいらっしゃるということでした。


 自衛隊の皆さんのキャンプです。


夕暮れ時の空。震災前はきっとのどかな住宅風景だったのだろう、ここで確かに生活を営む人たちがいたのだろうと思うと、夕焼けが美しいぶんだけ切ない気持ちになります。
まさか、ここまで津波が襲ってくるとは誰も思わなかったことでしょう。

千年に一度の震災を二度知っている

25日の報告続きです。
大船渡から一関に向かう途中、千年に一度といいわれる大津波を二度体験しているいのちと出会いました。「大船渡の三面椿(さんめんつばき)」です。
日本最古にして最大のこの椿の木は、沢山の赤い花をつけていました。

樹齢約1400年といわれるこの椿は、869年の日本史上最大と言われていた『貞観三陸地震(M8.6~9.0)をも経験していることになります。


貞観三陸地震については、平安時代の901年に大和朝廷が編纂した歴史書『日本三代実録』の記述によると「貞観期の869年7月13日陸奥国で大地震が起き、押し寄せた大津波で仙台平野全域が水没。1.000人を超す犠牲者が出た」と言われていて、現代とは人口や町の規模は全く違いますから一概には言えませんが東日本大震災に匹敵するものであったのでしょう。


 椿の木のすぐ近くまで大津波が迫っていたことがわかります。


 下の写真は、三面椿の傍に立って海の方向を眺めたところ。


椿のあるすぐ近くでは、まだ行方不明者捜索のヘリコプターが飛んでいます。


三面椿は藤原氏三代の平泉の様子も生きてきたんだろうなぁなどと思いながら、一関へとクルマを走らせました。

2011年4月25日月曜日

大船渡市 リアスホール

今回岩手に入った目的のひとつは、以前から気になっていた大船渡のリアスホールの状況視察でした。さいとう製菓の斎藤社長もお忙しい中を案内してくださいました。新沼館長より現状の説明を受けたあと、ホールを見学しました。
安全のため、全員ヘルメット装着。


噂に違わず素晴らしいホールでした。国道45号線をはさんで反対側まで津波の形跡がありましたが、ここは、津波被害はありません。しかし、少々落下物はあるようです。館長さんの説明では、これから最終的に各業者さんによる安全確認、修復の作業が入り、出来るだけ早く使えるようにしたいとのことでした。仙台市内の1000席以上のホールは、どこも深刻な状況ですから、リアスホールは、東北沿岸部のホールのなかでは、相当状態が良いと言えます。しかもまだ完成後約3年しか経っていない新しいホールです。


ただし、ここも避難所になっている関係上、今後、時間の経過とともに様々な支援が望まれます。
私からも現在考えられる様々な形のサポートのお話をさせていただきました。

大船渡市 かもめの玉子~さいとう製菓本社前あたり

陸前高田から足を延ばして、大船渡町に入りました。
かもめの玉子で有名なさいとう製菓本社前です。


さいとう製菓様は、本社機能はじめ壊滅的な被害を受けられ、かろうじて高台にある工場の1つが津波被害を免れたそうです。
本社前には、原型をとどめていない山車(お祭りに使ったもの)が残されていました。
ここには、町のにぎわい、お祭りがあったのですね。


残されたたったひとつの工場を訪ねると、さいとう製菓の社長と、工場長にお会いすることが出来、幸運にも、工場の様子を見学させていただくことができました。


見学を終えて、社長とパチリ。妙な格好に見えますが、厳重な衛生管理の証です。

陸前高田市 中心部

大船渡にあるリアスホールへ向かう途中、陸前高田市に立ち寄りました。
後で知りましたが、陸前高田市は津波で約3300棟の住宅が倒壊。死者・行方不明者数は岩手県内最多の約2200人で、人口約2万3000人の1割近くに上るとのことです。
捜索の際にご遺体を傷つけない配慮のためか重機による瓦礫撤去の作業もあまりすすめられていないようです。自衛隊の方々が長い棒をもって市内を行進する姿がありました。 町の中心部には殆ど人影は無く、道路はまだ冠水しているところもあります。


警視庁の方々でしょうか。冠水道路を全く気にもせず捜索活動を行っておられました。頭が下がります。


市内の中心部はいたるところでまだ冠水しています。目印になるような以前あった建築物がほとんど無くなっているため、案内をしていただいた地元の方でさえ一瞬道に迷ってしまうような光景です。軽い気持ちで足を踏み入れる場所ではありません。


2011年4月24日日曜日

七ヶ浜避難所炊き出し~千葉のラーメン「魂麺」

千葉、関東エリアでの人気ラーメン店「魂麺(こんめん)」の社長、山西氏率いる炊き出しチームが七ヶ浜にやってきてくれました。夕食の炊き出しです。

大人気ですごい行列でした。
山西さん、それからご紹介いただきましたIさん、本当にありがとうございました!

最後の桜~生命力

七ヶ浜町の海岸に近い道路沿い、瓦礫の中にその桜の木がありました。
この10年間毎週通っていた道です。私の記憶でも、案内のS係長の記憶でも、この場所には桜はありませんでした。もう少し内陸のほうから3月11日にここに流されたんですね。

でも、見て下さい!
冷たい雨に打たれながらも、倒れても花を咲かせています。

恐らくこの桜の木にとっては最後の花です。
これから咲こうとしてる蕾だって、しっかりとついています。

けなげで、誇らしく、そして生命力に溢れた桜の花を!
一瞬にしてたくさんの会話をこの木と交わしたような気がしました。





2011年4月22日金曜日

Groove7からのお礼

今日は米沢に来ています。ミュージカル「Faith」の稽古です。
昨夜七ヶ浜国際村で預ったGroove7からのお礼状を伝国座のメンバーに手渡しました。
伝国座メンバーが送った鉛筆やファイルに対するお礼です。

中学生のメンバーがその礼状を読んでくれました。
「家を流されてしまったメンバーもいるけど、がんばって練習に励んでいます」という一節には、伝国座メンバーも、逆に励まされているように感じました。



七ヶ浜のみなさんどうもありがとう!

2011年4月21日木曜日

被災地からのメッセージ~七ヶ浜国際村パフォーマンスカンパニー

先週もリポートいたしましたが、七ヶ浜国際村パフォーマンスカンパニーのメンバーは、本拠地の七ヶ浜国際村が避難所となっている関係上、避難者の皆さまに迷惑がかからない、かつ安全な場所での稽古を再開しています。
ミュージカルグループ「NaNa5931」、パーカッショングループ「Groove7」それぞれ、舞台袖や、ボイラー室の一部をお借りしてのレッスンです。講師陣もフルメンバーです。元劇団四季の高橋卓爾君も応援に参加してくれました。緊張感のある充実したレッスン内容でした。
稽古の様子をみていると震災後メンバーの連帯感がますます高まっているように感じます。
この調子でレッスンを重ねていってくれれば、感動的な舞台をつくれることは間違いありません。



国際村の表では、自衛隊の皆さんによる「お風呂」の支援が行われていました。

ここ七ヶ浜町、国際村のあたりは、まだ水道もガスもありません。電話回線も途絶えたままです。ホールの数メートル先のがけ下まで瓦礫が残っています。まさにまだ被災地のままなのであります。

そんな中で再開された国際村パフォーマンスカンパニーの活動の様子は、この町の子どもたちによる、未来への明るいメッセージでもあります。

2011年4月20日水曜日

夜桜

ビジネスとはほとんど関係の無い友人たちと久々にお酒を飲みました。
大学教授、財団職員、一級建築士、ミュージシャン、サーファー…何だか妙な取り合わせのメンバーですが、その妙な感じが心地よい時間でした。

お店を出た後、歩いて夜桜を観にいきました。
どうしても観たかった今年の桜です。
幻想的な一夜でありました。



「もうすぐ散りゆく美しさ」が、今年は特に僕の心の中へと沁みてきます。

贈り物

気がつくと、電池式ラジオが人にあげたり壊れたりして手持ちが無くなっていました。
電気屋さんに探しに行きましたが、なかなか手に入りません。
そんなときに東京在住の音楽家Tさんから贈り物が届きました。
スタッフとともに箱をあけると、まさにラジオの差し入れ。Tさんの仲間や友人のみなさんからのご好意だそうです。Tさんの愛情のこもった詰め合わせ。隙間にはカップラーメンや電池も入っていました。何だかとてもあったかい気持ちになりました。
仙台では毎日余震が続いています。いつまた停電になるかわかりません。大震災を経験すると「情報」がいかに大切か身にしみて感じます。
「安心」を支える贈り物、ほんとうにありがとうございます。
早速、事務所や稽古場、そして持ち出し用などとして備えさせていただきます!

震災後の舞台活動

本日の河北新報朝刊にも載っていましたが、仙台市内のホールの被害は甚大です。
以前このブログの記事でもSCSミュージカル研究所の公演を次々に中止したことは書きましたが、公演を中止したどの施設も、まだはっきりとした再開の目処がたっていない状況です。

しかし、公演場所がないからといって諦めるわけにはいきません。
ホール公演以外にもやれることがたくさんあるはず。
昨日の記事にも書きましたが、今、この時期にやらずしていつやるのか。
私たちのミッションは、必ずあるはずです。

連日、仙台の演劇関係者とのミーティングを重ねています。

2011年4月19日火曜日

震災後の音楽活動

この「JUN_harvest日記」は、震災以降、自分たちの音楽活動情報発信の記事が極端に少なくなってきています。しかし音楽活動を忘れている訳ではありません。
各地への支援活動を行いながら、その中から新たな音楽活動を模索しています。
1日たりともそのことを忘れてはいません。

昨日は東京のプロデューサーと電話で、今日は仙台在住の音楽家と筆者の事務所で、音楽を通じて、これからの仙台、そしてこれからの東北の音楽発信をしよう、どんな形態が最も必要なのか、と意見交換を行っています。

震災以降、被災地へ何度も足を運ぶなかで、生と死の境は実に紙一重であることを痛感してきました。生きていることがすごいことであり、同時に、生きてゆくことは困難と戦い続けることなのだと実感させられます。誰でも将来の死亡率は100パーセントです。筆者もいずれ死にゆく身であります。時間がありません。マグニチュード8クラスの余震が近々また来るという話もあります。

ゆえに、やりたいと思ったことに対して
「今やらずして何時やるのか」
そんな自問自答の日々です。

2011年4月18日月曜日

お役立ちグッズ

今日事務所にいらしたお客さまから、こんな小物をいただきました。


携帯電話用のソーラーバッテリーです。
ちょうど、愛用している携帯電話のバッテリーが怪しくなって、先週予備のバッテリーを注文したところ「震災の影響でお手元に届くのは2週間ぐらいかかるかもしれません」と言われ、不安になっていたところでした。
これがあれば、太陽の力で急場をしのげるかもしれません。一応、乾電池を使ったバッテリーの予備は持ち歩いていますが、電池が無くなったら終わりですから、こういった小物は安心の材料です。震災を経験して以来、携帯電話も重要なライフラインであることを実感。停電でAC充電が出来ない状態が長く続いたらどうしよう、と用心深い性格になっています。未だに毎日余震がありますから、携帯電話に限らず、バッテリーにはかなり気を使う日々です。

2011年4月17日日曜日

南三陸町 避難所 泊浜生活センター 馬場中山生活センター 名足幼稚園

 



震災後何度も歌津地区にはお邪魔していますが、まだ状況を自分の目で確認していない場所があります。避難所には、避難所の数 だけ「個性」があります。避難所を1箇所だけ見てレポートする芸能人やTVリポーターの言葉で避難所の状況を把握したような気分になるのは危険です。とに かく自分の目で確かめて、実際に話を聞いたうえでの現実的な支援が必要です。避難所の環境は毎日変化しているのが現実です。


 

筆者はどうしても動物を見つけると話をしたくなるのだにゃん。


歌津地区の避難所にお邪魔すると、必ず顔見知りの方が居られます。そういう土地ですから、筆者としては微力でも、友人たちの力をお借りして支援を続けさせていただければと考えています。



南三陸町 避難所 歌津中学校




昨日は南三陸町歌津地区へ行ってきました。
歌津中学校で、物資の仕分け。
宮城復興支援センター、関西学院大学の学生さんたち、そして、プルデンシャル生命保険のボランティアの方々が一生懸命、避難所の方々の負担を軽減しようと努力しています。


避難所になっている歌津中学校の外で。避難しているワンちゃん。