2015年10月18日日曜日

防災庁舎の4年半

東京から10年来の友人が訪ねてくれた。
二人で事務所近くにある「喜助本店」の牛たんを食べたあと、久しぶりの南三陸町へと、クルマを走らせた。

今回の彼の訪問は被災地へ行くことではないのだけれど、震災後も何度か仙台を訪れていてくれていることもあり、久しぶりに行ってみようということになった。

南三陸町の歌津地区には、1991年ごろから2006年ごろまで、地元の郷土芸能の指導やミュージカルの指導で通い続けた経験がある。したがって、その途中にある志津川の防災庁舎あたりは、慣れた道…の、はずであった。

ところが、道を間違えてしまった。

この半年ばかり、訪れていなかったこの場所は、昔の町のなかあちらこちらに、ピラミッドのように高い防潮堤の建設が進んでいた。人の姿の代りにダンプカーの車列が土ぼこりを上げている。

ようやくたどり着いた防災庁舎の前で、私たちはしばし無言で立ち尽くしていた。


傾きかけた秋の陽を浴びた鉄骨を見ながら、
様々な想いが私の胸を去来した。

地震の後に、はじめてここを通ったときのショックは、今も忘れていない。

下の写真は、震災後10日目の様子。


水や食料などの支援に始まり、避難所へ昔町民のみなさんと作ったミュージカルの歌を出前したりと支援活動をつづけた。

しかし、当時は何度ここに来ても、手を合わせる気持ちにはなれなかった。
なぜならまだ、ここで最後まで防災無線のマイクを握っていた、友人のたけちゃんが、どこかで生きていると信じていたから。2011年の夏。まだ瓦礫は残っている。


けれども、やはりもう気持ちを切り替えていかなければいけないのだろうと、 思い始めたころ。
震災から1年が過ぎた2012年の春。


片づけられた周囲の瓦礫。防災庁舎の向こうには、まだ志津川病院が見えていた。

…そして昨日。


防災庁舎の前から、海の方に目を移してみると、この先に海があるという気配はなくなってしまっていた。
あの町はほんとうにもう無くなってしまったのだね。

寂しすぎるけれど、これが津波被災地のあちこちで、普通にみられる光景。

私はますます言葉が見つかりにくくなっている。


0 件のコメント: