東京から10年来の友人が訪ねてくれた。
二人で事務所近くにある「喜助本店」の牛たんを食べたあと、久しぶりの南三陸町へと、クルマを走らせた。
今回の彼の訪問は被災地へ行くことではないのだけれど、震災後も何度か仙台を訪れていてくれていることもあり、久しぶりに行ってみようということになった。
南三陸町の歌津地区には、1991年ごろから2006年ごろまで、地元の郷土芸能の指導やミュージカルの指導で通い続けた経験がある。したがって、その途中にある志津川の防災庁舎あたりは、慣れた道…の、はずであった。
ところが、道を間違えてしまった。
この半年ばかり、訪れていなかったこの場所は、昔の町のなかあちらこちらに、ピラミッドのように高い防潮堤の建設が進んでいた。人の姿の代りにダンプカーの車列が土ぼこりを上げている。
ようやくたどり着いた防災庁舎の前で、私たちはしばし無言で立ち尽くしていた。
傾きかけた秋の陽を浴びた鉄骨を見ながら、
様々な想いが私の胸を去来した。
地震の後に、はじめてここを通ったときのショックは、今も忘れていない。
下の写真は、震災後10日目の様子。
水や食料などの支援に始まり、避難所へ昔町民のみなさんと作ったミュージカルの歌を出前したりと支援活動をつづけた。
しかし、当時は何度ここに来ても、手を合わせる気持ちにはなれなかった。
なぜならまだ、ここで最後まで防災無線のマイクを握っていた、友人のたけちゃんが、どこかで生きていると信じていたから。2011年の夏。まだ瓦礫は残っている。
けれども、やはりもう気持ちを切り替えていかなければいけないのだろうと、 思い始めたころ。
震災から1年が過ぎた2012年の春。
片づけられた周囲の瓦礫。防災庁舎の向こうには、まだ志津川病院が見えていた。
…そして昨日。
防災庁舎の前から、海の方に目を移してみると、この先に海があるという気配はなくなってしまっていた。
あの町はほんとうにもう無くなってしまったのだね。
寂しすぎるけれど、これが津波被災地のあちこちで、普通にみられる光景。
私はますます言葉が見つかりにくくなっている。
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